中東の思い出


 2月28日に米国とイスラエルがイランを攻撃して始まった戦争であるが、6月19日に一応停戦で合意したとの報道がなされた。それまでアメリカとイランの交渉状況について伝えられる報道によれば、特にトランプの発言とイランの反応など西洋と中東の文明、というか文化の違いを感じざるを得ない。中東諸国は日本とは違ってまったく異なる世界であり考え方も相当違っていると思う。またこれまで欧米が石油をもとに中東を支配していた歴史もあり、そういう国に対する交渉は非常に厄介なものとの思いが湧いてくる。これを機会に私が中東の国に行った時のことを遠い記憶をたどりながら、貴重な記録として書き記してみる。

クウェート

 まず会社に入って最初の海外出張はクウェートであった。KDDとクウェート通信省(MOC)とは、NECが通信設備を納入しKDDが運用支援を行ってきたことから、交換職員という名目で毎年数名の職員がお互いの職場に派遣するという覚書が交わされていた。私は本社に転勤して数年経てその交換職員に選ばれ、1984年に本社保全部、及び茨城衛星通信所の方と3名でクウェートに出張した。スケジュールはざっと以下のとおり主に施設見学であった。

  • 2月17日(金) 成田発
  • 2月18日(土) クウェート着、クウェート通信省(MOC)表敬訪問
  • 2月19日(日) 通信センター(TEC)見学
  • 2月20日(月) 通信センター(TEC)見学
  • 2月21日(火) ウムアルアイシュ地球局見学
  • 2月22日(水) ウムアルアイシュ地球局見学
  • 2月23日(木) クウェート通信省
  • 2月24日(金) 休日
  • 2月25日(土) 休日(独立記念日)
  • 2月26日(日) 通信センター、海岸局見学
  • 2月27日(月) ムシュリフ電話局見学、クウェート博物館見学、昼食会
  • 2月28日(火) 報告書作成
  • 2月29日(水) クウェート通信省表敬、クウェート発
  • 3月 1日(木) 成田着

 私の海外経験と言えば、新婚旅行でヨーロッパに一度行ったことはあるが、それ以外はなく海外出張ということでも初めてであった。それもクウェートという中東の国で日本とまったく異なった文化というか社会に触れ、強烈な印象を抱いた。まずクウェート空港に着いて列に並んでいると係官のような人がきて訳も分からず10ドル札を巻き上げられ、なんだか分からず入国した記憶がある。あの10ドルはなんだたのであろうか。

 ホテルはアメリカ大使館の前にある一流ホテル(Kuwait Hilton International)で部屋からクウェートのシンボルであるクウェートタワーが望めた。目の前のアメリカ大使館は最近爆弾騒ぎがあったらしく少々崩れた建物がみとめられた。やはり全体的に緑が乏しくコンクリートの建物ばかりが見え、やはり砂漠の中に築かれた街といった感じである。

 仕事は主に施設見学で毎日専用のドライバーが車(ベンツ)で送り迎えしてくれた。またクウェート通信省の方が付き添ってくれて9時から12時まで各施設見学、それが終わるとお昼ごろにホテルに戻り、それで一日の仕事は終えるといった感じであった。勤務時間は朝の8時頃から2時までということで、ドライバーやMOC職員もそれを踏まえた対応であった。ちなみにクウェートのオフィスアワーは次のとおり。

  • 役所: 7:00~13:00(夏季)、7:30~13:30(冬季)
  • 企業: 8:30~12:30, 16:30~20:00
  • 商店: 8:30~12:30, 16:30~21:00

 我々は施設見学を終えてホテルに戻り、やおら昼食を取るためホテルのレストランに行く。レストランではボーイがペットボトルの水を大事そうに抱えて、各テーブルの客に水を提供している。昼食を終え、部屋に戻って昼寝して4時ごろから3人で街に出かける。やはり熱い国なので昼間はあまり外に出歩く様子はなく夕方になって日が沈んでから街に人が湧いてくるといった感じである。商店街ではウィンドウショッピングをしたり、また金スークと呼ばれるお店に立ち寄ってネックレスなどの値段を聞いたりした。お店ではグラム当たりの価格をどの店も表示していた。多くの人が集まるGPO(General Post Office)の前にはイスとテーブルが路上に並べられたところがあり、みんなテーブルを囲んで紅茶を飲みながら談笑している。

 施設見学はまず通信センターの国際電話局を訪問した。国際電話交換台はKDDのものと同じであったがディスプレィにアラビア文字が右から左に流れるように表示されることに驚いた。説明の方から電話をかけていいよと言われたので、試しに自分の職場へ国際電話をしたが誰も応じなかった。なぜ電話に出ないのか疑問に思ったが、はたと今日は日曜日であった。中東は金曜日がお休みで日曜日は普通に勤務日である。
 次に郊外の地球局を訪問したが、車で郊外に向かうと遠くの方に砂漠の中に大きなパラボラアンテナが見えてきた。ゲートでは銃を構えた兵士がガードしている。中に入り局舎を隈なく見学させてくれたが、我々が扱っているNEC製の他、海外の通信設備もあり興味深かった。技術職員は多くはヨルダン人で、クウェート人は所長だけであった。
 その他に船舶無線用の海岸局にも連れて行ってもらった。以上は出張報告を参照されたい。

 クウェートは小さな国であるが石油のおかげで国は裕福で基本的に税金はなく、街にあるクウェート人の家の大きさには驚かされる。服装は例の首から足首まであるゆったりとした長袖のローブを羽織っている。多くは白いものが多いが中には茶色のローブの人もいる。頭には赤白の千鳥格子模様のスカーフとそれを留める黒い輪っかをつけている。砂漠の暑さ、それに砂から身を守るのに適していると聞いたことがある。確かに長袖ではあるがゆったりした服で意外と過ごし易いのかもしれない。またたいていの男の人は髭をたくわえている。いっぽう女性の方はあまり見かけなかったが、男性が白色に対し黒いローブを羽織っている。

 街のいたるところにモスクがあり1日に5回コーランが流れお祈りをしている。近代的なビルが立ち並んでいるもののイスラム教が大きく生活に溶け込んでいるアラブの世界である。


ホテルの窓から、目の前はアメリカ大使館

MOC

ウムアルアイシュ地球局

ウムアルアイシュ地球局

管制室

地球局の職員と

金スーク

ラジカセが売られていた

市場

お茶を呑みながら談笑している

モスク

クウェートの子供たち

給水塔

油田

オアシス

オアシスには人が集まっている。

ラクダ

ラクダが振りむいてくれた

クウェートタワーのレストランでMOC幹部とお食事

お世話になったMOC幹部と記念写真

フジャイラ

 2回目の中東訪問はUAEのフジャイラであった。海底ケーブル建設会社(KDD-SCS)に出向していた時にFLAGケーブルと呼ばれる日本から南周りでアジア、インド、中東、地中海を抜けてイギリスまで至る総延長距離 27,000km の壮大な海底ケーブルプロジェクトに携わったことがあった。FLAGケーブルシステムは海底ケーブルの陸揚局が14ヶ所あり、それぞれの国の通信ネットワークをつなげるものである。FLAGプロジェクトは買主がFLAG社で、米国AT&Tの子会社であるAT&T-SSIとKDD-SCSの共同受注で、海底ケーブルの敷設は東側がKDD-SCS、西側をAT&T-SSIというちょうど距離を半分にして担当し、陸揚げ局設備は各局の設備分担としてKDD-SCSが海底ケーブルの光信号を電気信号に変換しデジタル信号方式(SDH)にしてネットワークに接続するSLTEという端末設備を担当し、AT&T-SSIはネットワーク機能を有するNPE設備と監視装置を担当することになっていた。契約上システム全体を受注して2年間で建設を完了する計画であった。


FLAGケーブル

 当時、私は建設第2部というところに所属していて海底ケーブルの陸揚局の通信設備の建設を担当していた。FLAGシステムはちょうど中間点にあたるUAEのフジャイラにケーブルシステム全体の監視制御・運用を行うネットワーク監視設備が設置されていて、そこと米国ニューヨークにあるFLAG本社のオペレーションセンターからリモートで運用されることとなっていた。私は陸揚げ局設備の建設全体を管理する立場にあり、各陸揚げ局の建設にあたり工事業者への発注とともに各局に工事監督や試験のため要員を派遣していた。FLAGの陸揚げ局は14ヶ所もあり、その多くは都会から離れた海岸沿いの僻地、要するに田舎であり、またアジアやインド、それにエジプトなどあまり先進国というところは少なく、要員派遣にあたって長期滞在に不満をもらす者も多かった。

 さてFLAGの海底ケーブルの敷設、それに陸揚げ局設備の設置が終えた時点で、契約ではAcceptance Testと呼ばれる試験がありこの試験をパスすることが条件であった。この最終試験はケーブルシステムの全区間を通した通信回線試験(ビットエラー試験)であり、条件は全区間(回線速度は5Gbps)を1週間通して試験データを流し1ビットでも誤りがないことが求められていた。この最終試験を開始する間際になってフジャイラに派遣した要員が体調不良を訴え、急遽責任者である私がフジャイラで試験を監督することとなった。(1997年9月21日~30日、10月6日~22日)

 急遽出張となり、それも初めてのUAEでドバイ空港についたのは夜であった。その日のうちに商社の方が手配してくれたハイヤーでフジャイラに移動した。途中の景色は暗くて様子がまったく分からなかったが、まっくらの中を走っているとたまにオレンジ色の照明に照らされた工場みたいな箇所を過ぎた記憶がある。ホテルに着いてやっと一段落した。ホテルはがらんとして人はあまりいない。通された部屋はマンションと思えるくらい広かった。

 翌日、フジャイラの陸揚げ局に行ったが、ここは陸揚げ局というよりは、海岸から2~3km離れたところに新しい5~6階建てで総ガラス張りの現代的なビルであった。このビルの3階か4階だったか通信室の中に端局設備が設置されていた。海底線関連設備のフロアーに行くとそこにはAT&T-SSIや雇われ技術者が10名程たむろしていた。こちらは私ひとり、要するに日本人ひとりである。AT&T-SSIの方は各陸揚げ局との連絡用にFaxマシンを4台も常設していて各局とFaxで情報のやり取りをしていて、さすが金のかけ方が違うことを実感した。こちらはFaxマシンは1台だけで各局に派遣した技術者とは回線品質の悪いO/Wで会話することが多かった。また局にはケーブル発注主であるFLAG職員(契約派遣社員)がひとり常駐していて、我々を取り仕切っていた。その職員は若いフランス人で毎日午後5時頃からミーティングがあり、事務室でこのフランス人の机の前に輪になってAT&T-SSIから5~6名程度出席、KDD-SCSからは私一人で、各局の状況をそれぞれ報告するのであった。このフランス人、FLAG本社から派遣された契約社員だけあって、このミーティングではニューヨークにある本社と電話回線をつなぎっ放しにして、我々に対しては厳しい口調で、本社に対しては低調な口調で報告していた。

 1週間のAcceptance Testが始まり、14局をタンデムにつなぎデータを流して各局で測定しながら一斉にスタートするのであるが、なぜか1~2日になってビットエラーが出たり、その都度午後の会議でその原因について例のフランス人から追及されるのであった。原因の多くはAT&T-SSIが導入したネットワーク設備(NPE)に起因することが多かった。しかし中にはエラー発生個所がわからず、我々が導入したSLTEとAT&T-SSI側のNPE間をつなぐ光ファイバーの接続が疑われ、そのたびに疑われている局で我々の光端局設備(SLTE)のファイバー接続箇所のコネクターをアルコールで拭いて繋ぎ直すことが度々であった。それをしても結局エラーが生じて監督官のフランス人を前にどちらの原因なのか揉めることがあった。時には我々の設備の状況に関し例のフランス人から本社との電話会議の途中で急に直接で報告しろと言われ、彼の机の上に置かれた電話器に向かってひざまずき、つたない英語で報告したがうまく伝わらずAT&T-SSIの方からサポートしてもらったこともあった。その時のフランス人の軽蔑した表情が忘れられない。

 1週間のエラーフリーという条件に対し、何回か再トライすることとなった。時には5日目や6日目でエラーが発生し、険悪な雰囲気になったこともあった。結局1ヵ月かかってやっと1週間のエラーフリーが達成し無事Acceptance Testは終了した。

 フジャイラの滞在では朝はホテルでパンなどの軽食、昼は通信局舎ビルの隣にあるケンタッキーでフライドチキンとコーラー、夜はひとりでホテルから10分程歩いたところにある中華料理屋といった毎日であった。お昼は時々監視制御装置を担当しているAT&T-SSIの女性プログラマーと一緒に行くことがあったが、彼女は最初からLサイズ(1リットルもあろうか)のコーラを注文していて私の方はSサイズ、そのうち私も最後の方はLサイズになった。やはり熱い気候のせいか、それともアメリカ人のようにコーラ漬けの身体になってしまったのかもしれない。

 フジャイラ滞在中、休日に買い物など気晴らしにドバイに行った。片道2時間ほどかかるが、途中のドライブイン、といっても小さなお店で前にジュースや果物など並べているだけのドライブインであったが、そこで瓶入りのジュースを買う。車の中でそれを飲み干すとドライバーは瓶は外に捨てろと言う。瓶を投げ捨てるのにちょっと躊躇したが確かに周りは砂漠、といっても赤茶けた岩がところどころにある荒涼とした景色である。ドバイでは大きなショッピングセンターがあるはずと思ってうろうろしたが結局見つからず、小さなお店ではあまり欲しいものがなかったので、記念にアラビア音楽のカセットを1本購入した。帰りの車でドライバーからどんなカセットを買ったのかと聞かれたのでテープを渡すとさっそく鳴らし、なかなかいいものを買ったなと言ってくれた。


ドバイで買ったカセット(画面をクリックで音楽)

 Acceptance Testが無事に終わったので、AT&T-SSIの方から自分の泊っているホテルでベリーダンスがあるというので、仕事が終わってから彼のホテルに行く。ホテルについて彼からビールもあるよ、ということで彼はレセプションの兄ちゃんに何か小声で話してなんと缶ビールが出てきた。この国に来て久しぶりのビールに感激、ただしイスラムの国なので目立たず大人しく飲み干した。ベリーダンスの方はあまり刺激的なものではなく、久しぶりにビールを呑んだせいかあまり覚えていない。

 やっと仕事が終わってドバイに戻り、ドバイ空港では近隣の中東諸国からの出稼ぎであろうかそれこそ大きな荷物を抱えた旅行客が多くいたことが印象に残っている。そして、FLAGケーブルシステムは1997年11月に運用を開始した。

中東情勢について

 私がクウェートやUAEに行ったのはもう20年以上の前の話で、今では状況もすっかり変わっていよう。今回のホルムズ海峡の閉鎖を受けてUAEはフジャイラへのパイプラインを使って石油を輸出できるとのニュースがあり、久しぶりフジャイラの名前を聞いて当時のことを懐かしく思い出された。FLAGケーブルの陸揚げ局はETISALATの現代的なりっぱなビルであったが、もともと漁村の街での陸揚げ局やホテルから海岸まで4kmほどの小さな町であったが、あれから石油のパイプラインでタンカーが係留して輸出できるくらい大きな港町になったに違いない。ドバイが中東の金融センターと言われるくらい経済的に発展し世界の金持ちが住む街になったが、そのきっかけをつくったのはFLAGケーブルのお蔭だと言えるかもしれない。

 アメリカとイラン、停戦合意の後激しい戦闘は収まったようであるが、ホルムズ海峡ではイランが船舶を攻撃したとか、またアメリカがその反撃をしたとか完全に収まった気配はない。アメリカは核開発を阻止させるためイスラエルと共にイランを攻撃したわけであるが、今回の戦争をきっかけにホルムズ海峡がイランの影響を多大に受けるようになってしまった。もちろん国際法に照らせばホルムズ海峡は公海でありIMOもそう主張している。トランプは海峡がこのようになることを分かって攻撃をしかけたのであろうか。またイランとの交渉においてもてこづっている。トランプは不動産屋として成功したので交渉に自信を持っていたのかも知れないが、アラブ商人の強かさについては経験してはいなかったのではなかろうか。または周囲の助言を聞く耳を持たない性格がそうさせたのであろうか。

 いずれにしろ石油資源とホルムズ海峡の問題で世界は確実に不確実性が一層増したことには違いない。最新のニュースでは停戦合意も破棄されたとの情報も入ってきて、トランプはパンドラの箱を開けてしまったのではなかろうか。
 ホルムズ海峡の問題について、最近The New York Timesの記事で「Catch 22」という懐かしい単語を目にして興味深かった。

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